「神田」とは将門の「からだ」がなまって「かんだ」になったという伝承さえある平将門。
今でも、幅広い層に有名である最大の理由は、荒俣宏作で映画化もされた「帝都物語」のヒットにあるわけですが、その手のジャンルに造詣の深い荒俣氏が、現在の東京に根付く呪いの本体と小説の中で位置づけただけあって、それなりの現代に発生した怖い話はいくつもあります。
この場所には実際に墳墓が存在し祀られていたわけですが、その後なぜ、一等地のオフィス街に、避けられるようにしてこの場所が「将門の首塚」として残り続けることになったのか、主だったものは2つあります。
近代にはいってから、関東大震災までの間の首塚の様子に関しては織田完之による「平将門故蹟考」に詳しく図説されていて、絶版ですが、これは「平将門の古跡 平将門故蹟考口訳版」(伊藤晃訳)として図書館等で読むことができます。
・大蔵省の怪
1923年、関東大震災後の復興対策の1つとして隣接していた大蔵省の仮庁舎建設がこの地に決まりました。
国会議事堂建設を大蔵省営繕管財局工務部長として担当した縁で、工学博士の大熊嘉邦が、工事前に塚の発掘調査を行ったが、石櫃にはなにも発見できなかったと言われてる。
工事着工後、現場作業員のみならず、早速整爾大蔵大臣、矢崎管財局課長ら15人の大蔵省の大臣・高官が死亡。内作平政務次官を始めとした職員が多数、事故や怪我にみまわれたことから最終的には、1928年に仮庁舎を取り壊す事態に発展した。
将門没後1000年の年である1940年6月20日、大蔵省が落雷により炎上。河田烈大蔵大臣主導で大規模な壱千年祭を執行。
・GHQ区画整理の怪
戦後の占領政策の1つとして、この地を占領軍が接収。区画整理(駐車場設置)を始めるが、工事での事故やトラブルが相次ぎ、2名の死者を出したのち、工事中止の陳情があり1959年に接収が解除された。
単なる噂としては、
・ロッキード事件
日本を揺るがした戦後最大の贈収賄事件。丸紅、国際興業など多くの商社が関わったとされるこの事件の商社関係者で矢面に立たされた人物は、全て首塚に尻を向けて座っていたと噂が流れたことがある。その後、この話は、隣接するビルでは、塚を見下ろさない構造になっているとか、塚にお尻を向けないレイアウトで机の配置をしているという噂も登場。かつて、2つのビルに仕事で訪れたことがありますが、首塚伝説(彼らにとっては、ご利益の方)はともかく、以上2つの話は一笑に伏された記憶があります。
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